京の異界伝説を楽しむ!:千年の都に潜む神秘の世界とは?

京都の異界伝説:千年の都に潜む神秘の世界

平安京は、単なる都市計画に基づいて作られたのではなく、陰陽道に基づいた都市計画、そして都市全体を結界で覆うという思想のもとに造営されました。四神相応の地として建造された都として建造されています。なぜ四神相応の地で結界で都を守ろうとしたのか? それだけ怨霊からの祟りが恐ろしかったのでしょう。その祟りの原因を探してみましょう。

まずは平安京の結界の特徴を見てみます。

  • 四神相応の地:平安京は、四神相応の考え方を取り入れ、北に山(玄武)、東に川(青龍)、南に湖(朱雀)、西に道(白虎)を配置しています。

    • 北:船岡山
    • 東:鴨川
    • 南:巨椋池(現在は埋め立てられています)
    • 西:山陽道
      四神相応の地の画像
  • 鬼門封じ:北東(鬼門)の方角には、鬼門除けとして賀茂御祖神社(下鴨神社)が置かれました。

    下鴨神社の画像
  • 陰陽師による結界強化:陰陽師・安倍晴明は、桓武天皇が作った結界の弱点を強化するために、さらなる結界を構築したと言われています。

    • 晴明神社、下鴨神社、平安神宮を結ぶ三角形の結界
    • 晴明神社と下鴨神社を結ぶラインによる鬼門封じ
      晴明神社、下鴨神社、平安神宮を結ぶ三角形の結界の画像
  • 寺院による結界:平安京の周囲には、多くの寺院が建立されました。これらの寺院も、結界を構成する要素の一つと考えられています。

結界の目的

  • 都の守護:外敵や災害、疫病などから都を守る
  • 政治の安定:天皇を中心とした政治体制を安定させる
  • 精神的な安定:人々に安心感を与える

平安京の結界は、目に見えるものではありませんが、都市の構造や寺院の配置、陰陽師の力など、様々な要素が組み合わさって作られたと考えられています。現代においても、京都の街並みや神社仏閣には、その名残を感じることができます。

上の記事の内容から京の都がいかに怨霊からの祟りを恐れて結界を張っているのかが解りますね。では一体何が原因で祟りを恐れるようになったのでしょうか?次は怨霊からの祟りの代表例として、早良親王のクーデター問題を見てみます。一体何があったのでしょうか?

桓武天皇と早良親王のクーデター問題

これは、長岡京から平安京への遷都の背景にも深く関わっているとされる事件です。

簡単に言うと、桓武天皇の弟である早良親王が謀反の疑いをかけられ、幽閉後に亡くなってしまった事件です。早良親王は皇太子でしたが、藤原種継暗殺事件に関与したとされ、廃太子となり、淡路国へ流される途中で亡くなりました。

この事件には多くの謎が残されており、早良親王が本当に謀反を企てていたのか、それとも無実の罪を着せられたのか、真相は明らかになっていません。

事件の背景

  • 桓武天皇の即位:桓武天皇は、天武天皇系の血を引く父(光仁天皇)と天智天皇系の血を引く母を持つことから、両方の皇統を統合する象徴的な存在でした。しかし、その血統ゆえに、即位当初は皇位継承の正当性に疑問を持つ勢力も存在しました。
  • 藤原種継の暗殺:桓武天皇の側近で、長岡京遷都を推進した藤原種継が暗殺されました。この事件の黒幕として、早良親王が疑われることになります。

事件の経過

  1. 藤原種継暗殺事件発生(785年)
  2. 早良親王、謀反の疑いで乙訓寺に幽閉
  3. 早良親王、廃太子となる
  4. 早良親王、淡路国へ流される途中で死去
  5. 桓武天皇の近親者、相次いで病死
  6. 長岡京で疫病流行、洪水などの災害発生
  7. 桓武天皇、早良親王の祟りを恐れ、平安京へ遷都(794年)
  8. 早良親王に「崇道天皇」の尊号が贈られる(790年)

事件の謎

  • 早良親王は本当に謀反を企てていたのか?
    • 桓武天皇を排除しようとしていたという説
    • 無実の罪を着せられたという説
  • 事件の真相は?
    • 政治的な陰謀があった可能性
    • 皇位継承争いが絡んでいた可能性
  • なぜ桓武天皇は早良親王を恐れたのか?
    • 祟りを信じていたから
    • 政治的な不安定を避けるため

早良親王の祟りとは何が起こったのか。

早良親王の死後、桓武天皇の近親者や長岡京で疫病や災害が相次ぎました。これは、早良親王の祟りだと信じられ、桓武天皇は平安京へ遷都を決意したと言われています。

早良親王の祟りとされる事件は、平安時代初期に起こった数々の不幸な出来事です。桓武天皇の弟であった早良親王は、謀反の疑いをかけられ幽閉され、無実を訴えるために絶食して亡くなりました。その後、桓武天皇やその一族、そして都に次々と災厄が降りかかり、人々はそれを早良親王の祟りだと恐れました。

具体的には、以下のような事件が祟りとされています。

  • 疫病の流行: 都で疫病が流行し、多くの人が命を落としました。
  • 皇族の死: 桓武天皇の后や母、そして皇太子までもが相次いで亡くなりました。
  • 洪水: 長岡京で洪水が多発し、都の機能が麻痺しました。
  • 干魃: 日照りが続き、農作物が枯れて飢饉が発生しました。
  • 安殿親王(後の平城天皇)の病: 皇太子であった安殿親王が重い病にかかり、回復の見込みが立たなくなりました。

これらの出来事は、いずれも早良親王の死後数年以内に起こったため、人々は親王の怨霊が祟りをなしていると考えました。恐怖におののいた桓武天皇は、早良親王の霊を鎮めるために様々な対策を講じます。

  • 崇道天皇の称号を贈り、改めて厚く葬った。
  • 京都の御霊神社に早良親王を祀った。
  • 長岡京から平安京へ遷都した。

遷都の理由については、洪水対策という説もありますが、早良親王の怨霊から逃れるためだったという説も有力です。

現代における評価

早良親王は、今もなお怨霊として恐れられる一方で、無実の罪で亡くなった悲劇の皇子として同情を集めています。京都には、早良親王を祀る神社もあり、多くの人が訪れています。

まとめ

桓武天皇と早良親王のクーデター問題は、多くの謎に包まれた歴史的な事件です。事件の真相は未だ解明されていませんが、平安京遷都の背景や、当時の政治状況、人々の精神世界を知る上で重要な出来事と言えるでしょう。どう考えても早良親王は一生懸命仕事していただけなのに、いきなり冤罪を押しつけられ流刑にされて抗議のハンガーストライキ中に死亡。その後桓武天皇の周りで色々な事件が起こり、早良親王の祟りと陰陽師が告げ、祟りを恐れた桓武天皇は祟りの可能性のある長岡京を放棄して平安京へ遷都したと考えられますね。早良親王の祟りを恐れ陰陽道の四神相応に対応出来る平安京を造営したと言う可能性は高いのかなと思います。

次は、もう一つの大きな祟り問題について見てみます。

学問の神様、菅原道真の失脚:栄光と悲劇の物語

学問の神様として知られる菅原道真。その生涯は、華々しい栄光と突然の失脚という劇的なものでした。今回は、道真の失脚問題について、背景や真相、そしてその後の影響について詳しく解説していきます。

飛ぶ鳥を落とす勢いでの出世

菅原道真は、学者一族の出身でありながら、幼い頃から詩歌や学問に秀でた才能を示し、若くして朝廷に仕えました。

菅原道真の肖像画の画像
  • 遣唐使廃止:遣唐使を廃止し、独自の文化を育てるべきだと主張。
  • 政治改革:藤原氏の専横を抑制し、天皇中心の政治を目指した。

こうした功績により、道真は右大臣にまで昇り詰め、政治の中枢で活躍しました。

突然の失脚「昌泰の変」

しかし、昌泰4年(901年)、道真は突如として大宰府へ左遷されてしまいます。

大宰府跡の画像

これが「昌泰の変」と呼ばれる事件です。左大臣・藤原時平の陰謀により、道真は「醍醐天皇を廃して、自分の娘婿である斉世親王を天皇に立てようとした」という謀反の疑いをかけられました。

失脚の真相

道真の失脚には、様々な要因が絡み合っていたと考えられています。

  • 藤原時平との対立:藤原時平は、道真の政治力や影響力を警戒し、排除しようと画策していました。
  • 貴族社会からの反感:道真の急激な出世は、他の貴族たちの嫉妬や反感を買っていました。
  • 学者出身というハンデ:学者出身の道真は、貴族社会では異端児であり、その存在を疎ましく思う者もいました。

道真は、これらの複雑な状況の中で、政治的な陰謀に巻き込まれてしまったのです。

道真の死と祟り

大宰府に左遷された道真は、失意のうちに2年後に亡くなりました。

菅原道真の墓の画像

その後、都では落雷や疫病などの災害が相次ぎ、道真の祟りだと恐れられました。

北野天満宮の画像

朝廷は、道真の怒りを鎮めるために、彼を神として祀り、「北野天満宮」を建立しました。

菅原道真の祟りとは何が起こったのか?

菅原道真の祟りとされる事象は、平安時代中期に起こった一連の不幸な出来事です。学者として名高く、政治家としても活躍した菅原道真は、藤原時平の陰謀によって大宰府へ左遷され、失意のうちに亡くなりました。その後、朝廷や藤原氏に次々と災厄が降りかかり、人々はそれを道真の祟りだと恐れました。

具体的には、以下のような事象が祟りとされています。

  • 清涼殿落雷事件: 道真の死後、宮中の清涼殿に落雷があり、藤原時平を含む多くの廷臣が死傷しました。
    清涼殿落雷事件の画像
  • 醍醐天皇の病: 道真を左遷した醍醐天皇が病に倒れ、まもなく崩御しました。
  • 藤原時平の早世: 道真を陥れた張本人である藤原時平も、若くして病死しました。
  • 皇太子の死: 醍醐天皇の皇太子である保明親王も夭折しました。
  • 異常気象: 干魃、洪水、疫病などの災害が相次ぎました。

これらの出来事は、いずれも道真の死後数年から数十年以内に起こったため、人々は道真の怨霊が祟りをなしていると考えました。恐怖におののいた朝廷は、道真の霊を鎮めるために様々な対策を講じます。

  • 道真の官位を 右大臣に戻し、名誉を回復しました。
  • 北野天満宮を建立し、道真を天神として祀りました。
  • 道真を左遷したことを 公式に謝罪しました。

これらの措置によって、道真の祟りは徐々に収まったとされています。しかし、道真の怨霊は今もなお人々の心に残り、学問の神様として、また祟り神として畏敬されていま

後世への影響

道真の失脚は、平安時代の政治史に大きな影響を与えました。藤原氏の権力がさらに強まり、天皇親政は衰退していきました。

一方、道真は学問の神様として、多くの人々に崇敬されるようになりました。彼の学問に対する情熱や、不遇な境遇に耐え抜いた生き方は、今も多くの人々に 感銘を与え続けています。

まとめ

菅原道真の失脚は、権力争いや陰謀、そして社会的な偏見が複雑に絡み合った結果でした。彼の悲劇的な運命は、後世に多くの教訓を残しています。

白峯神宮と崇徳上皇

白峯神宮は、京都市上京区にある神社で、球技上達の神様として知られています。特にサッカーとの関わりが深く、多くのサッカー選手やファンが訪れます。

その理由は、白峯神宮に祀られている精大明神が、蹴鞠(けまり)の神様であり、蹴鞠はサッカーの起源とも言われているからです。

白峯神宮とサッカーの関連をいくつかご紹介します。

  • 公式球の奉納: JFA(日本サッカー協会)は、ワールドカップで使用された公式球を白峯神宮に奉納しています。過去には、フランス大会、日韓大会、ドイツ大会、南アフリカ大会、ブラジル大会で使用された公式球が奉納されました。
  • サッカー選手の絵馬: 多くのサッカー選手が、必勝祈願や感謝の気持ちを込めて、絵馬を奉納しています。
  • 蹴鞠の奉納: 毎年4月と7月には、精大明神の例祭として蹴鞠が奉納されます。

白峯神宮は、サッカーファンにとって聖地のような場所と言えるでしょう。参拝することで、サッカーの上達を祈願したり、サッカーの歴史を感じたりすることができ、たくさんのサッカーファンが訪れていますし、Jリーグ各チームからの奉納もたくさん飾られています。

白峯神宮に奉納されたサッカーボールの画像

しかし、白峯神宮には別の顔があります。

白峯神宮は、京都市上京区にある神社で、崇徳上皇と淳仁天皇を祀っています。崇徳上皇は、保元の乱に敗れて讃岐国(現在の香川県)に流され、その地で崩御されました。その後、天変地異が相次いだことから、上皇の祟りを恐れた人々によって、京都に白峯神宮が創建され、上皇の御霊が慰められました。

白峯神宮は、 崇徳上皇の御陵がある白峰山にちなんで名付けられました。境内には、崇徳上皇の御廟所や、上皇が讃岐で過ごされた御所の建物を移築したとされる「潜龍社」など、上皇にゆかりの深い場所があります。

また、白峯神宮は、 蹴鞠(けまり)の神事でも知られています。これは、崇徳上皇が蹴鞠を好まれたことに由来します。毎年5月4日には、境内で行われる「蹴鞠祭」には、多くの見物客が訪れます。

白峯神宮は、 崇徳上皇の御霊を鎮めるために創建された神社であり、上皇と深い関わりを持つ神社といえます。

あの世とこの世の境「六道珍皇寺」

六道珍皇寺の画像

平安京の東端、鳥辺野に位置する六道珍皇寺は、あの世とこの世の境目と信じられてきました。寺の境内には、小野篁が冥界に通ったとされる「冥途通いの井戸」や、鐘の音が十萬億土まで届くとされる「迎え鐘」など、異界との繋がりを感じさせるものが数多く残されています。

死者が蘇る?「一条戻り橋」

一条戻り橋の画像

一条戻り橋は、死者が蘇るという伝説が残る橋です。平安時代の貴族・三善清行が亡くなった際、息子の浄蔵が橋の上で蘇生させたという話が有名です。このことから、戻り橋の名前がついたと言われています。橋のたもとには、浄蔵が建てたとされる祠が残っています。

陰陽師が活躍した「晴明神社」

晴明神社の画像

安倍晴明ゆかりの晴明神社は、陰陽道にまつわる伝説が残る場所です。境内には、晴明が式神を封じ込めたとされる「一条戻り橋」の一部や、晴明井戸など、神秘的なスポットがあります。

鬼が出た?「羅生門」

羅生門跡の画像

芥川龍之介の小説でも有名な羅生門は、かつて都の南端に位置し、夜な夜な鬼が出ると恐れられていました。渡辺綱が鬼女を退治したという伝説も残っています。現在は跡地となっていますが、当時の面影を残す石碑が建てられています。

妖かしの棲む池「神泉苑」

神泉苑の画像

二条城の南に位置する神泉苑は、かつては広大な庭園で、多くの貴族が訪れました。しかし、夜になると妖かしが出ると恐れられ、異界への入り口とも考えられていました。現在も、池のほとりに立つ厳島神社には、不思議な雰囲気が漂っています。

まとめ

京都には、今回ご紹介した以外にも、多くの異界伝説が残されています。これらの伝説は、長い歴史の中で人々の恐怖や畏敬の念が生み出したものと言えるでしょう。古都を散策する際には、こうした伝説に思いを馳せてみるのも一興です

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